ONE・TEN・SIX @ BIKER

 SFIG少年だった頃、夕闇迫る六本木の交差点を駆け抜ける英国車のトライアンフを見た。それから半世紀近くバイクと関わってきたけれど、バイカーが格好いいとこの時の体感は何も変わらず、今にしてもバイクしか信じるものは無い。

 60年代後半のポップスに”花のサンフランシスコ”という曲がある……この街にいけば花を頭にさして歩いている人たちがいるとか、この街では穏やかな人たちと逢うだろうといったような歌だ。何という歌詞なのだろう。突然、頭に花をさした人たちと道端で出会ったら、何というところに来てしまったのだろうとか想ってしまうのが、今ならば当たり前かもしれない。そんな半世紀も前の歌には微笑まずにはいられないが、当時のサンフランシスコのストリートだって、頭に花をさした人など先ず出会わなかったし、柄の悪い地域の街角では弱者の立場である老婆の鞄を奪い取ろうと、元気な若者が棒などで殴っては鞄を奪い取っていた。それこそトライアンフやアイアンスポーツスターなどに跨がった一部のバイカーたちなどの、爆走映画さながらの乱暴な振る舞いが横行していた時代だ。要するにそのようなことの方が僕にとってのがリアルな”花のサンフランシスコ”で、サーフボードを屋根に乗っけたワーゲンビートルを転がす若者たち若者たちがいる…なんて、僕らにとってはまさにフェイクニュースでしかなかったのだ。当時の日本でのヒッピー文化というものはそんな裏付けの無い雰囲気で出来ていて、日本に入り込んでから誰が何を根拠に伝えたか分からないような新解釈が生まれ、新宿あたりで”フーテン”だの”アングラ”と呼ばれたり、フォークだのゲリラなどというカウンターカルチャー風味のカタチに変わっていた。

まさに”風”である…今では失笑してしまいそうな事象だが、好むと好まざるともそれらが僕らのストリート・リアルだったのだ。

 太平洋戦争戦後復興期の50年代には戦後の日本で200社以上もあったバイクメーカーも、この頃になるとビッグ4だけになるとともに、その製品は世界中を駆け巡った。モーターサイクルというのは日本製のバイクのことを称するぐらいの勢いだった。そして僕らはこの真っただ中にいた。それこそ80年代のバイクバブルじゃないが毎年発表される新型車に一喜一憂した。

 70年代にはバイクムービーなどでアメリカンバイクシーンに感化され、まあこの時代のハリウッドムービーで登場するバイカーというのは必ず悪者で、ライダースにカットオフジーンズ姿の登場人物はほとんどが複数・集団なのに、それでも正義の味方や主人公側のヒーローバイカーにやられてしまうのがオチだった。

 80年代にはオフロードレーススポーツなども盛んになり、僕もこのバブル期後半はパリダカールラリーというサハラを縦横断するレースや中南米でのオフロードレースなどを追っていた。そして90年代にはリアルな”アメリカンバイカー文化”を追いかけ、僕自身も写真を撮りながらバイクでインディアン居留地やカナダアラスカと走りまくっていた。

 それが’01年9・11以降、今まで走ってきたアラブとアメリカの問題が深刻化し、異国人の僕がアメリカ国内を今までのように自由に走り回るのがしづらくなってきた。そこで、僕自身も10代の頃ヒッチハイクで回っていた日本の道に再び興味を持ち始め、日本中の道を日本製のバイクで走り回ることを始めたのだ。

 勝手な解釈でのヒッピーを、フーテンとし、西海岸/カルフォルニアをアメリカの全てだと想い込んだ文化感覚も、バブル経済の下で世界中を走り回ったことも、ハーレーというアメリカンカルチャーにはまり込んだことも、アメリカ中や日本中を走り回っても、今となっては幻のようである。

 しかし、そんな50年あまりのその全てがフェイクと感じさせる現在の日本でも、バイクで走る体感だけはリアルな感触があるのだ。リアルはバイクだけだ。

 かつて少年のころ六本木の交差点で見かけた当時ではかなり珍しいトライアンフで疾走するIKUSAWAさんの、まさに突き抜けたように加速する姿には及ばないかもしれないが、僕もバイクに跨がった瞬間から、体調も気持ちもがらりと変わるのは間違いない。このカブの90でもって渋谷のスクランブルでも走り抜けたろかい!!

今年のキンズキャンプ

photo明るくそして暖かくなり始めています。春のキャンプイベントのキンズキャンプ新潟は、今年も4月の30日〜5月1日という予定で、新潟県糸魚川市美山公園キャンプ場にて開催されます。
開場は午前10時となります。参加費は3000円となります。春の日本海の幸と酒と焚火でまたみんなで盛り上がりましょう。この頃だと山サイドでの山桜もいいかも、どうぞご参加下さい。今年もバイクでの参加が基本ですが何らかの事情でクルマでの参加の方は事前にご連絡下さい。

 

フラットヘッド

photo20数年来の付き合いの親しい先輩がインディアンを手に入れたそうです。とても嬉しそうでした。以前はとんでもなく早いパンヘッドをブン廻していたおっさんです。名神の養老で分かれて、数時間後に東京の自宅の奥さんに連絡すると、もう戻っているとのことでした。ぴっちりセットされたパンヘッドはオイルの循環が良好であればどこまでもガンガン回るとはいえ、リジットフレームで400キロ弱の高速を一回の給油のみで四時間を切るか切らないかで走っていました。ツインカムに乗っている人たちには、どうといったことではない話かも知れませんが。当時はめちゃくちゃな話でした。そんな先輩が今度はフラットヘッドです。
でもチョイとばかり話が進むと”バイクは走ってナンボ”ということになりました。古いバイク乗りはどんな貴重なバイクでも持っててナンボではなく、走らなけりゃ嬉しくないという僕らなりの話で落ち着きました。僕はきっちりとレストアされたインディアンはハーレーのフラットへットより良く出来ていると思っているので、組み上がりを楽しみに近いうちにまた走りますかということです。ただ20数年前には3・40年前のバイクでも、既に60年以上前のバイクということになっている訳ですから、どうなることかな。今度はゆっくりとインディアン太鼓のような排気音を楽しみながら下道で走りますか。

Love & Freedom

photoバイクキャンピングを友達と一緒に楽しもう…ということをキンズキャンプという名で始めて26年ぐらい経つのかなあ。最初は仲間内でやってたものが公示までして、イベント化してからは20年ほどになります。今年は5月に新潟県糸魚川市美山公園、7月は青森県三戸ふるさと河川公園、9月は新潟県ヒスイ峡、11月は香川県田の浦キャンプ場と開催します。まあ懲りずにやっています。今年は回数を重ねて来たことと、世代やバイクの存在感自体が静かに変化しているからかもしれないけれど、新ためて集うということを、自ら参加者のフリをして何かを感じようと思っています。何よりも、前の日に飲み過ぎて本部でダラダラしないように頑張ります。
女子単独参加、新人参加も含め、ふるって参加してみて下さい。問い合わせはキンズキャンプ090-1948-4944まで。キャンプ参加費は¥3000. 尚飲食の出店は募集していません。よろしくお願いします。
また色々作ってきたキンズキャンプTを並べてみようかとも思っています。以前のヤツを持っている人は持ってきてくれるとありがたいです。もしかすると飲み物のプレゼントがあるかも。みんなで本部テントを褪せたキンズキャンプTで鮮やかに飾りましょう。

”キンズキャンプ”からのお知らせです。

SPRING02上越の桜はまだ数日はかかりそうですが、明るくそして暖かくなり始めています。春のキャンプイベントのキンズキャンプ新潟は、今年も5月の2〜3日という予定で、新潟県糸魚川市美山公園キャンプ場にて開催されます。
開場は午前10時となります。参加費は3000円となります。5月の日本海の幸と酒と焚火でまたみんなで盛り上がりましょう。この頃だと山サイドでの山桜もいいかも、どうぞご参加下さい。さて、キンズキャンプ上越計画も第二段階に入り、上越市稲田に構えたキンズキャンプ上越は3月31日をもって閉店となりました。今年は訪ねるよと言ってくれていた皆さん、ごめんなさい。実は今後はちゃんとしたキャンプも出来きそうな、もっと妙高の自然にさらに入り込もうと計画もしています。ちょっとお休みです。
しかし、上越のバイカーたちが支えてくれている”キンズキャンプ・サルーン”はますます元気に営業中です。そちらでビールでも喰らいましょう。
新潟県上越市本町4丁目3−14です。高田駅から直ぐのところです。

Kinscamp Shopでは2015シリーズの商品をアップしました。

とんだアウトロー伝説

photoスタージスについてもう少しだけ付け加えておきたい。スタージスに以前アウトロー伝説が広まっていた。この街にきているアウトローバイカーのバイクに触れたりしようもんなら腕を切り落とされるとか、女性にからんでトラブルとなればすぐ銃が出てくるなど、昔のバイクムービーさながらの荒っぽい話が飛び交っていた。僕自身まだバイカーを雑誌や映画でしか見たことのなかった若い頃、スタージスではないがあるクラブのメンバーの良く出来ていたチョッパーを舐めるように写真を撮っていた時、まあこれはダメかなあと思うようなシーンにもあったが、本当にヤバいことはあった。これは今でもあまり変わらないのだけれど、僕らがそのテリトリーに入った時の振る舞いと立ち位置しだいなのだ。テリトリーに近づかなければ良いし、それなりにルールは守ろう。
これは僕が現場にいた訳ではなく、その当事者とのインタビュー話なのだが…
70年代後半のスタージスでのことだ。とあるモーターサイクルクラブのメンバーたちが近くの街でパーティを楽しんでいた。そのクラブの支部メンバーが開いている街はずれのバーだった。プライベートパーティに近いものであっても、小さな田舎町では当然ながら町中が変な警戒をしていた。にもかかわらず彼らもそのうちには閉められた店内でのパーティでは納まりきれずに、バイクで隣町に繰り出した。そして隣町のバーに数人のバイカーがそれなりの秩序を持ちながら酒を楽しんでいた(そうとも思えないがそう聞いた)。彼らの自由奔放な楽しみ方は保守的な環境で生きていなければならなかった女性の何かをちょいとばかり刺激したのだろう。中には恐いもの見たさに進んで彼らと交わろうとするものもいた。バイカーたちにとっては思っても見ない大歓迎と勘違いする。彼女たちにしてみれば映画で見たアウトローの様な外見とは背中合わせの柔らかな彼らの対応に、好奇心を優先してそのパーティにも参加してくるものも出てきたのだろう。
そうなると今までジッと静かに見守っていた街の男たちも黙っていない、普段何も気にもしていない女性に対してでも、自分のテリトリーを犯されたような錯覚をもちなんだか面白くないのだろう。ある意味では嫉妬かもしれない。バイカーたちの自由奔放な振る舞いに街の男たちは手に汗をかき始めたのだった。そして一人の若者にあるメンバーが酔ってふらつきながら歩く背後から刺されてしまった。
地元の警察はこの傷害事件の事情を明らかにするために、被害者側ではあるのだが彼らのクラブを事情徴収ということで大部隊でバーを囲み、パーティを封鎖した。これでこの事件は次の日のローカル新聞に載って一件落着と思えたが、その大捕り物騒動の次の日だった。メンバーと街の男たちとは気持ちの覚めやらぬまま、またもやちょいとしたいざこざとなった。もちろん警戒中の警官は素早く止めに入った。ところが興奮するメンバーは仲裁役に入った警官までのしてしまった。おまけに大人気も無く、こともあろうに警官のバッチまで剥ぎ取ってしまった。そうなってしまうとウエスタンムービーさながらの、アウトロー集団 対 保安官と街の人たちの戦いになってしまった。もちろん彼らはアウトローとしてジェイル送りになってしまったのだった。
40年も前の話だが何とも荒っぽいことか。その後暫くこの街にはバイカーが入ることを禁止されてしまったのだった。開拓時代にゴールドを求めて集まった、ワイルド・ビル・ヒコックやカラミティジェーンなどの伝説もつアウトローの町にまた新たな伝説を書き加えてしまったのだ。
このことからスタージスのラリーがアウトローバイカーが集まるイメージを生み出してしまったかもしれない。まあその後84年にも暴力事件があってますます伝説は磨きをかけてしまったのだ。そんな昔話でした。

50th Sturgis Rallyから25年

photo今年の夏のスタージス・ラリーは75th記念となる。この写真は25年前の50th記念の年のものだ。どんなスタージスとなるやら…
先日今年のスタージスに参加したいという若者がたずねてきて、会場の受付はどこかと聞いてきた。この20年ほどの日本で定着したミーティングシステムの中で育ったのだから仕方も無いが、今となってはこの世代はこのラリーの成り立ちについて知らないのだろう。このバイクラリーに憧れて数々の日本型のバイクミーティングが生まれ育っていたのだが、僕もその責任者の一人として改めてこのラリーについて書いておかなければならないだろうと思った。まあアメリカでもこの国でもバイカーという言葉やハーレーダビッドソンというバイクがビジネス中心に一人歩きしてこうなったと窺える。スタージスについての場所や成り立ちは検索すれば一目瞭然なので省くが、僕としては20数年前にラリーを”集う”と訳して原稿を書いていた頃を思い出す。
集ったのである。どこからかバイクで走ってきたりトレーラーでバイクを運んできたりと、この八月の第一週にブラックヒルズ国立公園内のスタージスという農業都市にバイクが集まってきたのだ。もちろん主催者はいるが50万台ものバイクがこの小さな街に集まってしまったのだ。正月のSAの集会と変わらないケタはずれのものともいえるかもしれない。小さな町のモーテルの部屋数等これまたケタが違いすぎるぐらい足りないし、スーパーの食品売り場もカラカラになってしまう。何よりも酒類とガソリンが大変だった。また荒っぽいのもたくさんいて銃の携帯が許されているサウスダコタ州だが、その時期の銃の数も半端ではなかった。だからその頃のスタージスは州警察も含めて参加者も尖っていた。ただその分だけアメリカ的な自己責任が発生していたのだ。暗黙のルールとテリトリーを守り、自立したキャンピングが成り立っていなければならなかったのだ。
しかし、この50thを期にこれだけ人の集まるイベントをビジネスが見逃すはずが無い。先ずは不動産業が動き、町や市もだまっていない。もちろんハーレー業界とて見逃す手は無い。街の地代は上がり大モールやモーテルチェーン、ファストフードとあっという間に動き始めたのだった。またこの頃冷戦時代の大陸弾道がセットされていたサウスダコタの高原から撤去され、州としても国からの援助も不足し、この観光大イベントに乗り出してきたのだった。
しかしここがアメリカの良いところなのだが、スタージスは誰のものという運動がバイカーたちの手で起きた。結果的にはバイカーが形の上では勝ち、これまでに利益やシステムを確保したビジネスサイドは表立たないように回った。そのせいだかどうか知らないが、メインストリートの垂れ幕が”ウエルカムバイカーズ”が”ウェルカムライダーズ”という言葉に変わったりとチンケなことがたくさん起きた時期もあった。
でもこのラリーに参加し続けていた当のバイカーたちは何も変わること無く、自分たちのスタンスでこのラリーを楽しんできたのだった。だから何も変わらず自分のことは自分でやらなければならない。もちろん参加費等存在しないし、記念にエントリーをしたいのなら、相変わらずジャックパインに行けば出来る。ただただ、以前と同じように自己責任の基に、この街に今年も多くのバイカーが集まるであろうということだ。好きなタイプも嫌いなタイプもたくさんやってくる。だからこそアメリカ的なイベントであり続けることが出来るかどうかの、75th記念のラリーということになるのだろう。

 

古い写真ですが…

photo以前の写真整理をしていたらちょっと気になる写真がありました。
僕は2つの輪のモノが登場するとついついカメラを向けていたのですが、最近の写真とは少しだけ違うなあと思うのです。まあ僕がフィルム世代なので古い写真というポジションで見れば良いのでしょうが…このロケーションは80年代のエクアドルのビーチです。まあ東洋人の僕がカメラを顔の前にあてて写真を撮っているのです。そこを歩く少年たちと自転車を押しながら通り過ぎようとする若者です。インターネットが世界中に届いていて、写真どころか動画が身近になった今日だったら、異邦人の構えたカメラに若者は何気なく少しだけも微笑むでしょうか。
大昔には写真に魂をとられると信じていた時代があったと聞きます。この時期でもアフリカの回教色の強いところなどでは、子供を撮ろうと向けたカメラに親が大声で怒鳴りつけてくることはありましたが、この写真にはそんな敵意が感じられないのです。この頃の南米でもあちこちで紛争があって、銃を抱えた兵隊にクルマを取り囲まれたりすることはありました。でも拿捕されるようなことは無かったです。そんな時代だったのですかねえ。
まあ、最近のカメラは何でもかんでも写し撮ってしまうので、だれもが撮られることに意識があるということなのでしょう。精度が上がった分だけ写し込む側の意識が求められているのでしょうか。写真が難しくなったなあ。L & R

いないよね…最近

photo70年代のバイク誌を見ていたらこんな気持ちいい品のある”ふぁっくサイン”を見つけました。若い金髪の女子だったから気持ちよく受け入れられるということだけではないと思います。この人も今となっては60を過ぎたそれなりのオバさんにというより可愛いお婆さんなっていると思うのですが、これだけすっきりとした明るさは、近年のバイクシーンや街の若者のシーンに日本でもアメリカでもなかなか見かけません。この頃に”PAECE”とか”LOVE”だとかいっていたわけです。
この時期にはアメリカはベトナムでの戦争はとりあえず終わっていたのかなあ。でも衛星画像でコントローラーを使ってのものではなかったはずです。彼女には”ふぁっく”の相手がこの写真を撮ったカメラマンのもうひとつ向こう側にはっきりと見えていたのではないのでしょうか。
このところノスタルジックにFTWを使った表現を多々見かけますが、FTWは”ふぁっく to the world”だったり、”Forever Two Wheels”だったりと、この頃には色々な使われ方をしていました。まあどっちでもいいのだけれど”ふぁっく”はとても古い英語で長い間使われていたのだけれど、この下品な言葉ですらグローバルな世界ということで英語圏を飛び出して、意味合いがちっとばかりこの数十年で変化しているのかなあ。僕がバイカーの写真を撮り始めたのは、こんな頃のアメリカが好きだったのかもしれません。

KYとかいう言葉を簡単に使うな!

photo供がKYなんて言葉をもう誰も使わないようになったからこそいえるが、空気を読むという高度な技術を持たないヤツが、空気を読めなんて言うのは辞めなさい。
昨日原稿でバイカーの存在感を一枚の写真から改めて確かめたくて、その独特な雰囲気について書いていたのだけど、出版される文中ではどうしても格好をつけてしまったり、口実に走ってしまう。結局、自分でも分裂気味で分けの解らない原稿を入稿してしまった。そんな気持ちを引きずりながらまだまだ消化不良なのだろう。ならばここでもさらに芸術してしまおうということだ。
誰にでもコンビニに写真が映ってしまう時代だからこそ、自分の好きな空気が映っていると信じている写真を出したのだけれど、誰かが夕焼けだったころ、オレは胸焼けだ。解んねえだろうな。刷られる写真もオリジナルプリントではないから日焼けの日光写真だ。誌面にそれが映り込むかどうか不安だ。
というか、そんなことはスマホで見るRGBの光画に誰もが馴れてしまっているので、僕の独りよがりであるとも思う。
まあ年寄りばかりの時代になって先の無い時間に慌てまくり、若者だってどんどん焦っている今の時代に、空気感なんてレトロな言葉を懐かしがることも無いのかもしれないが、地味な世の中に向かっているのだからこそ、これを見逃す手は無いと思う。空気です。モノを写し込むのはそのまわりに流れている空気の流れ具合とのやり取りなのではないですか。
そんなことを教えてくれた芸術家の叔父が先日亡くなった。僕は葬式にも顔を出せなかったのでつい芸術しちゃいました。